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56.意と意識

太極拳に「用意不用力」という言葉があります。この中の「意」とは何でしょうか。「意」は「意識」ではないと先生は次のような説明をしてくれました。

「意」という漢字は、「音」に「心」と書きます。即ち心の音であり、はっきりと聞き取れない心に湧いてくるすべてのものを指していると考えられます。「識」とは、音を刃物で切り分ける、即ち音を分別して明確にすることをいうそうです。このことから、「意識」とは、「意」を分けて明確にすることであり、一方、「意」とは、分けて分別すると消えてなくなるものも出てくるので、分別する前の全てを含んでいるものということのようです。病気は意識していないところから発することが多くあります。「痛い」とは、意識を向けてしてほしいという信号と捉えることが来ます。意識すると血流が増え、自然治癒力が働いて治る方向に進むからです。

身体の各部位から伝わってくる信号の全てを心が受け止めた時、それが「意」であり、そして、その「意」を識別して身体のどの部位からのどのような信号であるかを区別したものを「意識」というだということになります。

ここで、先生は「体性感覚野の地図(ホムンクルス)」という絵を見せてくれました。これは、人間の脳の中で、身体のどの部分に感覚が働いているかを示した図で、感覚が強く働いている部分ほど大きく描かれている奇妙な人間の絵でした。口、舌、目、鼻、耳は大きく、特に掌は非常に大きくなっていました。逆に胴体や腕、足は小さい。私たちの脳では、どこに神経が強く働いているかが示されている絵でした。これが通常であるとしても、出来るだけ均等に意を用いて関心を向けることが、健康を保つ上で重要であるということでしょうか。通常、鈍感なところにも意を用いることが大切であると先生は言いました。「痛い」という信号が来てから意を用いるのでは遅いということのようです。

先生は全身の全ての部分を意識できるようになる練習として次のようなことを私たちにするように言われました。まず、両足を開いて、「足の裏」を感じるかと言い、意識を足の裏に感覚を集中させるように言われました。続いて、「くるぶしの関節は?」、「膝は?」、「股関節は?」、「腰椎は?」、「胸椎は?」、「頸椎は?」、「頭は?」と。私は、各部位の近くの一帯としての感覚は取れましたが、細かな部分の感覚はつかめませんでした。

 

次に、「雲手」の練習をしました。このとき、「腿を意識して」と先生に言われました。この指示は、腿を意識すると他のところの感覚が分からなくなることを実感させるための練習だったようです。部分的に意識すると、身体の他のところからの信号を受け取ることができなくなるので、常に、からだ全体からの信号を受け取れるようにすることが大切だということでした。